2018年7月7日土曜日。
避難先から戻ったのはこの日の昼前。結局自宅にとどまった母が昼食を持ってきてくれた。割と近くにいるのだが、父親だけ小学校に避難したらしい。(集団避難生活を拒むのだ、無理もない)
今朝方コンビニで買った焼きそばを子どもたちは先に食べていたので、自分がその昼食を食べながらこれまでの話をした。クルマは乗れるものの、足の手術をしており歩き回るのには不自由する。
その後、洗濯をしたり横になって休んだり日常と同じことをするうち平常を取り戻しつつあった。本当にありがたい、幸運だと思う一方でテレビの画面に映る、想像以上に酷い状況に絶句、これが自分の住む家だったらと思うと本当に恐ろしかった。
今朝方家内と合流した後、一度は家内の実家の無事が確認されたのだが、それ以降連絡がつかなくなった。テレビ画面の惨状が家内の実家のごく近く。あの見慣れた風景が信じられない状況になっている…絶望と希望とが混乱する。これは東日本の津波のようではないかとさえ。
それでも疲れがどっと出て何度も寝てしまったが、ネット上には救助要請の画が次々と。同じ状況になってやしないか、地区の名前まで同じだ。「助けてください」これをシェアしたとしてこれは有効な手段なんだろうか。拡散を仕事にしている今、まったく逆のことを考えている。でも相変わらず連絡はつかない、どうしようもない。そんな夜になった。
そんな中、横浜に住む義母の妹さん一家から電話。姉の安否について知っていることはないかと。知る限りのことと昨日までのことを全部話しをしたが、果たして。
2018年7月9日日曜日。
今日になって雨も止み晴れ間さえ出て来た。水位もかなり落ち着いてきて、午後には避難準備情報やだいぶ長かった大雨特別警報も解除。とっくにこの辺は日常になっていたが、自分としても安心できる状態になった。(これを書いている今も大雨洪水警報が出ているが)
自動車屋からも電話があり安否確認ついでに自動車の問題はないかと聞かれ、取りに行った眼鏡屋でもその話になった。水道水が飲めないという情報もあり、飲料水をとりあえず10リットル程確保。水道は出るしガスも生きてるので、煮沸は可能。それに伴って大容量の手指消毒液も買った。ホームセンターでは、長靴がかなり買われていた。底が抜けないようにという、これは明らかに水害に合われてこれから掃除をするのだろう。うちは本当にラッキーだ。連日の雨通勤でくたびれたレインウェアも新調。今頃は透湿防水素材を謳ってても、数千円で上下が来る時代。
それと自転車で出たのだが、明らかに普段少ない裏道にクルマが来ている。ナビが誘導しているのだろうか、県外ナンバー、泥のついたクルマが通勤路に並ぶ。ずっと鳴っているヘリの音。増え続ける被害者の数。この日常・非日常の合間。それでも自分は無事じゃないか。余計なことに力を使ってはいけない。
真備町では電話が通じないらしい。それに断水、市内の学校がこれから二日間休校になるのでその間、ここで過ごしてもらうことになった。大きな被害のある地区にいながら、奥の高い位置に住んでいたため難を逃れていた。そして何とか道も通じている。山が崩れなかったのが更に幸運で、このときばかりは日頃の不自由さが生きたのかと思った。
明日提出の企画書はもう自分の中では完成していたので、CCのやり取りにそれどころではなかった。また落ち着いたら、今回の教訓に準備や決めごとをしておこう。
今はこんなことしか書けない。残しておきたくてこの気持のまま書く。
思い出したら追記するかもしれないが、書く。書いておく。