忘れきるために今日も走った。そして今日も走り続けられるようなルート(ストレスなくぐるっと)に決めた。何度も走ってる道なのに、決して遠く県外でもないのに。これが自分にもたらす充実と納得は、ルーチンでありながらある種の冒険感があり、まるでスポーツをしているようだ。
昨日のルートと平行する岡山側、とでも言えるか。(成羽新見間の)K33を北上するため、180から313へ。
当然今日も暑い。出る気も失くしそうになるが、全身を濡らし少しでも遅い時間にと、15時過ぎに出発。
成羽からK33を北上。川霧が何箇所かで見えた。この成羽川沿いは色々と映える。個人的には好きな道。何の変哲もない田舎の川沿いかもしれないが、どちらかというと海沿いで育ち、後に林道や川潜りで知ることになった景色は、自分には特別なものだ。スマホ写真じゃ何の変哲もないが。
上の写真より少し北、阿部山橋辺りでもう一度。対岸の集落と夕方にも関わらず鮮やかな緑がたまらない。
そして今日は青空まで川面に映った。
行こうか迷いつつ止めた吹屋街道、相変わらず完全閉鎖中のK50(このまま廃道となるのか)を過ぎ新見へ。昨日走った182とは平行する形。似たようなところを目と脳に焼き付けるように走る。
新見に入ると180からK32へ。K58で南下すればいいものを、頑なにK32~K84と大きく回る。何度も走った道なんだが、今日は何だか心持ちが違う。
…この成羽K33以降、新見、K32真庭、K84の間、集中して走ったせいか、色々なことを考えたり思い出したり、旅をしている感覚になったり、子どもの頃の記憶やら錯覚やら、何だか楽しくも不思議な感じがした。
いつもキョロキョロと景色や家並みを見回しながら走るのが癖。それも、学生時代潜っていた川そのものや、知らない町だからこそ石垣や集落、ふと目に止まった家に目が止まり、一瞬色々なことを想像する。今日は特に。
この歳になっても知らないことばかりだ。知識も知恵も、あるいは常識なんかも知らないかもしれない。その癖、バイクに乗って土地や家を見回してる時は、何の不安もなく、好奇心は満たされ、遠くへ行きたいとか新しいバイク欲しいとかそんなことは一切思わない。自己満足が完全に成立しているのだ。
知らない町だからか、知らない家だからか…。思い起こすと子どもの頃、年に1度位両親の実家に帰省し、どこかしらに泊まった記憶から来てる気がする。実家だけとは限らない。おじやおばの家かもしれない。母の従兄弟の家だったかもしれない。正確な家系図も分かってなかった頃、車のなかった家から遠く熊本まで家族で往復するのは一大行事だった。
出発するその日は必ず最寄の駅まで(それも年代によって住んだ土地も変わった)タクシーで行き、新幹線と特急を乗り継いだ(おかげでタクシーのLPガスの匂いも特別感)。遠かった熊本。博多で乗り換える、特急有明の方が長かったと思う。夕暮れ時の知らない町、車窓から見る流れ行く家々。灯りが点き、一瞬その家の暮らしや家族を想像した。どんな町でどんな暮らしでどんな家族なのか。現代より圧倒的に情報のない時代。自宅を離れたその日は、より一層違う町の違う暮らしに興味が向かった。姉と二人、漫画を数冊選んで持っていった楽しみの程度。家の子では想像もつかず、そんな時代の暇は潰せないとさえ思う。
その延長線だと思う。いまだにふと見えた玄関から勝手に色々と想像して。それはどこかわくわくとした、非日常の一部。なのだと解釈する、そんな日。1本のドキュメンタリー映画を観たような読後感(流石に大袈裟か)。いいのか悪いのか。